我々が戦うべき相手は人間ではなく反平和主義である。
"平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。"
(マタイによる福音書第5章9節)
エミール=ゾラ"私は告発する。’
私が告発した人たちに関する限り,私は彼らに知りもしないし,ただ一度会ったこともなく,彼らに対して恨みや憎悪を抱いているわけにもありません.彼らは私に社会悪の標本であるだけです。 そうして来る私の行為は,真実と正義の爆発を早めるための革命的手段であるだけです。
私はあんなに大きな苦痛を経験した人類,いまや幸福追求の権利を持つ人類の名において,ただ一つの熱情,すなわち真実の光に対する情熱を持っているだけです。私の燃える抗議は私の魂の叫びであるだけです。どうか私を重罪裁判所へ呼んで青空の下で調査してください!
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=hansol4755&logNo=221560419688에서
1。芸能人と医者と百姓の収入の格差は公正であるか。
"貪欲は欲望を正常にみたさないこと
持ってはいけないものを欲しがる、そしてそれを非正常的なやり方で満たす。
これが貪欲である。
もらっていけないものをもらう、これはだれががもらうものを奪うことである。
やるべきものをやらない。それはだれかがもらうものをもらえないことである。
してはいけないことをする、これはだれかがひがいしゃになることである。
すべきことをしない、これはだれかが権利を奪われことである。
不当な利益は正当な利益を犠牲にする。
不当な権利は正当な権利を犠牲にする。
不当な行動は正当な行動を犠牲にする。
世の中には余計なことで儲かっている人たちが多い。余計なことというのはなくても大きな差し支えはないという意味である。衣食住はわれらにとってなくてはならない存在でありもっとも基本的な欲望である生存への本能を満たしてくれる。しかし人間は生存以外のいろいろな欲望をもっておりそれを満たすための様々な制度やシステム及び職業がある。社会や経済が発展することでそれはもっと増え続けるので、今日先進国であればあるほどもっと複雑で多様な社会にならざるを得ないといわれている。
それは言い換えれば余計なことが仕事や事業になっていくことを意味する。人間の欲望がとどまることがないので人間がこの世に存在する限りまた人間が戦争や自然の崩壊などで大きく衰退しない限りそれは無限大に進んでいくだろう。昔なら単なる遊びや趣味だったものがいつのまにか仕事や事業になることは数えきれないほど多い。'余計なこと'が'儲かること'になることは'文明化'あるいは'成長'ともいえよう。
しかしこのような現象は矛盾的な変化を伴う場合がしばしばである。それは人間により必要なものやサービスを提供する分野より市場価値が高い分野に社会の利益がもっと集中することになっていくことである。第4次産業革命が叫ばれている現在、農業や製造業のように人間と密接な関係を持っている分野の利益は下がる一方で新しい'余計な'分野であればあるほど儲かる現象が目立っている。果たしてこれは市場の自然な原理として受け入れてもいいだろうか。
これは市場価値が絶対価値より大きくなることを意味する。市場でどれだけ付加価値を持ってくるかによって収入が決まるということであるがそれが果たして公正なことか疑問を感じるのだ。普通我らは能力と努力、仕事の強度や時間などで収入がきまることが公正だと思いがちだが、市場価値というものがそれを良く反映しているのかはいえない。ノーベル賞をもらった学者は上の条件から言えばかなり上位であると評価できるが、収入がそれほどでもないのが現実である。たまたまきれいであるとかかわいいとかで売れているアイドルが果たして上の条件で上位であるだろうか。百姓の作った米は我らにとって一日三回(あるいは1、2回)必要でありせいぜい年に何回ぐらい(個人差が大きいが)必要である医者の医療よりもっと大事であると言えるが収入に関してその反対になっていることも考えるべきだと思う。
芸能人や医者そして百姓よりもっと大きな収入を手に入れている事業家ーこれも個人差はあるーに対しても同じである。彼らが上の条件の最高の地位をもっているとはだれも思わないはずである。事業家は事業をやる才能とそれに似合う努力をするだけである。有名な事業家たちを成功させる存在はもっと優れた才能をもってもっと努力している技術者や営業マン、デザイナーなどではなかろうか。もちろんそのような人たちはそれによってかなりの成功をおさめてはいるが事業家ほどではないことは明らかである。場合によっては'かも'になってしまうことさえないとは言えない。
もう一つ考えなければならないことは相続による財産からの収入の問題である。事業を起こした事業か本人ならともかく単にその人の子供であるということだけで大きな財産を譲ってもらったことで莫大な収入を得ている人たちは世の中に数えきれないほど多い。これこそ公平さを全く欠いていることではなかろうか。努力も能力も長い間の強度の仕事もしなかった人にはそれを得る資格があるとは言えない。
しかし昔の時代に遡るとこのような不公正さはよりひどくなる。封建時代になると身分で収入が決まるのが一般的である。支配階級は事業で大きな収入を得たことがなく武力での地位にあがったわけであるから半分は'強盗'や'泥棒'またはその子孫であるといえよう。もっと上に遡ると'奴隷'という存在があってほとんど無権利の状態に置かれている。もっと原始時代になると略奪や搾取はもっと一般化していたはずだ。今日の資本主義社会はそのような野蛮と搾取をかなり文明という名前で改善したことになるが、根本的な不公正さがなくなったといえないのだ。
2。国際社会はもっと不公平である。
19世紀の世界は侵略と略奪、支配という狂気に満ちた時代だった。生産力の飛躍的な発展をもたらした工業化による産業革命は地域の格差を一気に広めその結果弱肉強食の饗宴が広げられた。'万国法'という国際秩序は一応あったもののそれは強大国の間の対立を調整する水準のものであり、弱小国の安全を守ってくれる頼もしいものとは程遠い存在であった。強大国たちは力で相手を捩じ伏せたあと、不当な条約を押し付けてからそれの順守を強制するという卑劣なやり方で弱い国々を支配のもとに置くことになる。
そのような不公平さは現代の社会でも本質的には変わっていない。国際法は依然として強大国を中心に作られておりそれを守ることは不公平さの根本的な改善にそれほど役に立たない。すでに傾いた運動場になっている国際社会をそのまま維持していることに過ぎない。もちろん露骨に侵略や支配が行われていた19世紀に比べるとかなり公平さが大きくなったとは言える。表面的には植民地はほとんどなくなっているうえ、戦争を起こすことはかなりリスクが大きいものになった。最強国アメリカでもそう簡単に戦争ということにはならない。いくら無能だと言われても国際連合では弱小国も一票の権利はあるから完全に無視することはできない。しかし力の威力でそのような公平さを押し潰すことができるようになっている点では本質的な変化はないと言える。
我らはテロをどう思うべきか。常識的にいえばテロは犯罪であり絶対許されるものではない。しかしそれは強大国の論理ではなかろうか。"テロは罪のない、弱い人たちが犠牲になるからもっと悪い"テロを悪いと判断することの一番重要な根拠はこのような主張である。なら聞こう。戦争で人を殺すことは手放しで許してもいいのか。空襲というものはとくに'罪のない、弱い人たち'を対象にする犯罪ではなかろうか。なのに戦争であるから許されるとしたら結局軍事力の強い国の'戦争によるテロ'は無罪ということになる。戦争ではなくても強大国の悪行によるー表面的には合法的だがー犠牲者は弱小国の'罪のない、弱い人たち'であるがそれは正当化されている現実はどう思うべきなのか聞きたい。
したがってテロは戦争で言えば一種のゲリラ戦術であると言える。弱い方が強敵と真っ正面から戦ったら勝算は限りなくゼロに近いはずだ。あの恐ろしいスパルターの精鋭の軍隊も人数が少ないまま多数の敵と戦って全員戦死ということになった。少数のモンゴルがが世界を制覇したことも徹底的なゲリラ戦術を使ったからこそできた結果である。韓国の独立運動の中にテロは正式な方法として使われていた戦術でありそれは少ない犠牲で大きな効果をあげる作戦であった。
テロをなくしたい?取り締まりを厳しくすればなくなる?それより強大国中心の国際社会をより公平なすることがより効果のある方法ではなかろうか。なくなったある韓国の政治家はこう語った。"泥棒をなくす一番いい方法は国民の生活を豊かにすることだ"と。テロをなくす一番いい方法も強大国により搾取される国々を強大国の協力で豊かにしてあげることだということになる。そして力で弱い国を踏み躙ることをやめていくべきである。
しかし現実は反対である。強大国は自分達の利益を守るために'協力'している。たとえば、連合軍が第2次世界大戦後おこなった戦犯裁判の本質は敗北した国への制裁であった。これは仲間に対する裏切りへの見せしめでもある。もちろんその結果多くに国が解放されたと言われているがそれはあくまでも結果であり意図的なことはほとんどない。植民地国家の中で意図的に解放された国は朝鮮半島の二つの国しかない。ほかは抵抗や妥協などの結果で自由を得たのだから戦犯裁判への過大評価はやめた方がよかろう。
それは今現在の国際法は植民地支配を不法的行為だとは規定していないことからも明らかである。韓国が日本と1965年国交樹立の際結ばれた日韓請求権協定によって韓国側に与えられた5億ドルは賠償金でも謝罪金でもない。その理由は韓国は戦争相手ではないから賠償金を請求できないからだそうだ。つまり植民地支配そのものは賠償をすべき不法行為ではないということである。ただ具体的な不法行為には賠償責任が認められてはいるので現在その争いが一部行われているのが現実である。これがいわゆる国際法の決まりであり日本はそれを利用しただけである。日本の態度がいくら悪いと思ってもそれをすべて日本の責任だと片付けることはできない。
それを裏付けるかのようにイギリスやフランスのような勝利国はもちろんドイツのような敗戦国さえ植民地支配を謝罪しないしそれ自体への賠償なども全く行っていない。むしろ植民地化の肯定的な評価をのべている場合が大半である。いわゆる'植民地近代化論'がその代表的な主張であるが、これはどうやら日本だけではないようだ。このような厚かましい主張が難なく広がっていること自体が強大国の論理で動いている国際社会がどれだけ不公平であるかを証明している。
日本が今日過去のことに心から反省していないことはこのような国際社会の秩序と無関係ではなかろう。"赤信号でもみんなでわたれば怖くない"という論理は日本に限られた現象ではない。ここでみんなは必ずしも'すべて'でも'多数'でもなくてもいい。少数の雀蜂は多数の蜜蜂を圧倒しながその巣の蜂蜜を略奪するが、その雀蜂も一頭の熊にやられたらなすすべがない。日本の経団連や韓国の経団連は企業の数は比較的に少数であるが、"いっしょにわたれば怖くない"'みんな'である。
このように、国内に比べると国際社会は公平さという基準からいえば遥かに遅れていることが分かると思う。国際社会も歴史からの教訓が積もることにより公正さへの要求が高まりそれは実際に公正さを守る多様な制度やシステムが構築されてきた。しかし問題はそれを維持できる力がないことである。国内の公正さが曲がりながらもある程度守られていることはそれを維持する法律と司法システムそしてそれを執行する行政の力があるからだ。
国際社会にも国際連合やNATO、EU、国際司法裁判所などの国際機構が整ってはいるが、国内の国家機関のような力はまだないのが現実である。2002年のイラク戦争の場合、大量虐殺兵器の存在が戦争の名分であったが、これだという証拠もなくアメリカにより強行されたが、結果的にアメリカの主張は間違ったことになった。しかしそれに対して国際機構は何の制裁も戦犯裁判もできなく、力のある国や勢力が正義であることに根本的な変りがないことを証明したことになっただけである。
3。人類の未来のため私がしなければならない課題
キリスト教の聖書には,アブラハムという人物が自分の甥のロットを救出するシーンがある。彼は警察や軍隊を呼んで,それを成し遂げなかった。彼の選んだ方法は自分の力を使うことだった. 300人という私兵たちを動員してアブラハムは甥であるロットを救出し、合わせて略奪された物もすべて奪返してやってくる。これはけっして誰でもできる方法ではないだろう。
それから千年近くたったある日,今度はレイプをしたある女性の復讐話が出る。ある老人が自分の妾を連れてある村に入って一夜の宿所を求め,主人は許可する。ところが,その日の夜,町の不良が,その家にやって来て老人の妾を要求する。もちろん,性的な陵辱を通じて楽しさを得るということだ。部外者だから好きにしてもいいというのが彼らの考えだが,これは普遍的なものだった可能性が高い。結局彼たちは彼女を夜通し屈辱にし,朝になって老人が起こした時にはすでに彼女は死んでいた.
その後,これに対する懲罰が加えられる。老人は彼女の遺体をばらばらにしてイスラエルの11の部族ーイスラエルは当時12部族の連合で成り立っていたーに送って悔しさを訴える。すると、11の部族はこの事件を起こしたベンニャミン・部族に責任を追及するが、ベンニャミン・部族はこれを拒否してかえって戦争を宣言する。これに11の部族とベンニャミン部族との内戦が起きたが、結果、部族はほとんど絶滅寸前まで行った。すると"このまま私たち同族の一つが滅ぼす"という危機意識が生じてそこで懲罰は止まるようになった。
この二つの和の違いは何だろうか。前者は自らの力で救援したが,後者は他人の助けを受け,相手を懲らしめたということだ。これは道徳と秩序がある程度確立したことを前提とする。人類の進歩を意味する。これを裏付けるのがイスラエル民族のエジプト脱出過程で神から受けたという律法だ。それには殺人者強姦者に対する死刑が明示されている。イスラエル部族はその律法を遵守したのだ。アブラハム時代にはそうした律法がなかったため,自己救済策だけが唯一の解決策だったのだが。
イエスが現れた時代に早ければこのような律法は,確固たるものとして社会を支配していた。イエスはある女性を死の危機から救う。姦淫罪で石で死刑を受ける女性のためにイエスが"あなたたちのなかで罪のない者が最初の石を投げろ"と告げると,彼女を殺そうとした群れは散らばったという記録がある。この話が事実かどうかは別として,罪を犯せば応分の処罰を受けるのが当然視されたことを意味する。もはや自己救済策は,重要な解決手段ではない。イエスはこうした傾向をより確実にするために,"敵を愛しなさい"とした。無分別な復讐や私的な処刑を防ぐための教えではないだろうか。実は、イエスが反対した、"目には目、歯に歯は"いう復讐許可法さえも行きすぎた復讐を防ぐ法律的な制限であったという分析もある。
人類はこのように法と秩序を通じて悪に対する処罰と予防に力を注いできた。弱者はもちろんだが,強者でさえ法と秩序なしに生きていくのは決して安全でないことに気づいたからだ。社会の安全がなく,権力の安定もないことを知った為政者の判断も作用したのだろう。今日の法治社会は,こうして作られた人類の遺産である。柳時敏(リュシミン)(韓国の元政治家で政治評論家)が"法治とは,法を守れという意味ではなく-そういう意味もあるが-法によって治めるという意味である"といったのは,法により治められる時,人々が安心して生きていけることを意味する。
国際社会もそうかわらないだろう。アレクサンダーがペルシアを征服した時,ジンギスカンが世界を征服する時,万国公法は存在さえしなかった。19世紀の帝国主義時代に万国公法は存在したが、力の基盤がなければ、保護されなかった。しかし,だからといって無用の物ではなかった。 弱くて弱い韓国が,数十年間、生き残ったことができたのは,万国公法のちからもあったのではないかと思われる。いくら弱い国でも無条件に征服するのは難しくなったためであり,これを力のバランスが裏付けたのだ。
第2次世界大戦後の戦犯裁判の人類の行為処罰は、まさにそうした流れの延長でできただろう。 その後,戦争は強大国でも自由にできる行為ではなかった。米国が湾岸戦争を行う時,そしてアフガニスタンとイラクを侵攻する時も,彼らは自分たちの名分のためにものすごい努力を傾けた。 目に見えるようなイランに戦争できないのも名分がないためだろう。
このように人類は強者による弱者の支配と搾取を許さない方向に絶えず進歩を重ねてきた。もはや国際社会も,国内社会も強者の論理だけで動くことはない。"国際社会は力の論理で動く"と主張する人々に問いたい。19世紀の帝国主義時代と今を比較する際、その違いを見ることができるのだろうか?"ラと.もちろん、その差ははっきりしている。第2次世界大戦後70年以上が経ったが、これ以上大きな戦争が起こらなかったのは、ただ、核兵器の戦争抑止力のためだけではないだろう。巧妙化した"新帝国主義"新植民地主義が存在しても,世の中が進歩の道を歩んでいることは厳然たる事実だ。
我々はこうした進歩の道を完成させるべきという課題に取り組まなければならないだろう. 自由民主主義を通じて力のない人々を搾取する行為が容認されてはならず,国際秩序の確立を通じて強大国の横暴がこれ以上合理化されないようにしなければならない。
"あ,新しい世界が目の前に広がるね。力ずくで押さえる時代が去り,道義がかなう時代がやってくるのだな。この数千年間磨き上げながら育ててきた人道的精神が,もはや新しい文明の明るさを人類の歴史に照らし出すようになったね。春が世の中に近付いてきて,すべての生命を生き返らせるね。凍りついた氷と冷たい吹雪で息が詰まった一時代が去り,やわらかい風と暖かい日差しに元気が出る新しい時代が来るのね。
[ネイバー知識百科]3・1独立宣言書(時事常識事前、pmgの知識エンジンの研究所)
4。未来への流れを逆らっている日本は目を覚ますべきである。
しかし残念ながらこのような未来へ向かう流れを逆らおうとして国々が世界にはまだまだ存在している。力によりほかの国々及び民族を捩じ伏せて自分達だけの利益をより多く確保するという、時代遅れの旧習にしがみついている勢力はいまも平和で穏やかな世界を破壊しようとしているのである。代表的にはアメリカ、中国、日本をあげられる。それ以外にもロシア、北朝鮮もあげられるがこれらの国は国力の限界でその影響は限られているからもし世界が今より平和で穏やかな状態になると自然に正常へ戻れる可能性が高いと思われる。イギリス、フランス、ドイツなどの強大国はたとえまだ未来への完全な変化はできていないがその流れを逆らうことはないだろうと見て大きな見違いはなかろう。
日本、中国、アメリカの三国には大きな共通点がある。それは回りの国々との関係で気を使った経験がない国だということである。乱暴にいえば、長い間'わがまま'に生きていた国だったと言える。隣人ー必ずしも隣に住んでいる人ではなく近くにいる人という意味でのーという存在はかなり気になるものであり、それによって人間は社会関係を学び成熟していくことになる。家族が第一の社会だとすれば隣人は第二の社会で職場や学校などは第三の社会になる。距離感が大きい第三の社会とも親しみすぎて距離感がほとんどない家族とも異なる節制と配慮がかなり必要な社会が隣人という第二の社会である。
アメリカはこのような隣人を持っていたのか。地理的にはなかったとは言えない。しかしそれはアメリカを成熟させるにはかなり物足りない隣人であった。メキシコはほとんど無視しても言い隣人でありカナダーは逆に気にしなくてもいいような存在であった。前者は国の弱さで後者は同質性があまり大きかったからであろう。(それに国の重さの差があまりにも大きい)簡単にいえば自分より貧しくて力のない二人を友だちにしたために気を使うことも思いやる必要もなかったので'わがまま'に生きられた人間がアメリカである。中南米全体がそうだったからアメリカは未熟のまま今日に至った。
中国はそういう点では同じだろう。中華体制の中心的な存在であった中国は周辺民族に文明を教えていた立場を数千年間維持してきた国である。たとえ支配民族や国は変っても中華体制のt中心であったことは変らなかった。少なくとも産業革命以前までは経済的に世界一の地位を譲ったことのないこともありイギリスの貿易要請に対して'わが国は土地が大きくものが豊かなので貿易なんか要らない"と大きな口をたたいたのである。それはただの虚言ではなかった。人工面積経済などで18世紀中国は名実ともに世界最強国であったからだった。(ロシアがもっと大きかったが、ロシアは今と同じく使えない土地が半分以上だから)
'わがまま'な中国の素顔は韓国との関係の歴史からはっきり現れる。いつも天子の国家として朝鮮半島の国々を二千年近く重いのまま動かそうとしたのは韓国人なら知らない人がいないほどである。多くのものや金、女性までありとあらゆるものを要求した中国のために韓国の国々の発展が阻害されたという主張があるからその甚だしいことが分かるだろう。逆に韓国はそのような中国の横暴のために侵略への夢など最初からあり得なかったかも知れない。それは節制と配慮を学んだという意味でいい影響もあったといえる。
日本が'わがまま'だというと賛否両論がありそうだ。日本人はいつも人に気を使い、迷惑をかけないことを口癖にいっているからわがままという言葉に同意しにくいかも知れない。しかしそれあくまでも内部に向かっての話であり、外向けの教えではないはずだ。島の中に閉じこもっていた長い間日本人はお互いに気を使うようになり礼儀正しいという評価を得ることに成功した。しかしそれはある意味では家族のなかでの関係に過ぎなかった。(親戚も含めて)限られた世界でしか生きてきたことがなくよそとの関係がほとんどなかったー旅行するぐらいの関係というかー日本人に隣人ということがなにかどう接すればいいのかが分かっただろうか。
だからそこ力が強くなるとすぐ隣人への攻撃をしかけたのではなかったのかと思われる。もちろん隣人との戦争は珍しくない。ヨーロッパの場合が代表的である。彼らはよく戦争を起こして隣人と戦った歴史がある。むしろそれによって彼らは社会性を成長させ成熟していたのである。しかし日本は内部戦争は繰り返してもよそとの戦争はむしろ珍しい。それはよそとの関係そのものが少なかったからである。ヨーロッパの戦争は節制の限度で行われるのに対して日本のよそとの戦争はいつも侵略に繋がれていたのはその違いのためである。
ドイツはなぜ二回の世界大戦を起こしたのか。それには日本が戦争を起こした理由と共通点がある。分裂が終わり大きくて強い権力が誕生したことが戦争に繋がったということである。それはわがままの実現である。ドイツは分裂されたからほかの国々とドイツとして接する機会がなかった。それが統一したので'統一ドイツ'は社会性を成長させていない状態で大きな力を持つことになったのだ。これは分裂の歴史が長い日本も同じである。
ナポレオンとヒットラー、豊臣秀吉は驚くほど大きな共通点を持っている。微々たる身分から立ち上がって英雄になったことである。つまり本来なら手にすることができない大きな力をもつようになった。徳川家康はもちろん織田信長も力を手にいれたからといって朝鮮侵略なんかしなかったと思う。しかし秀吉には節制と配慮を身につける機会はほとんどなかったからそういうとんでもないことができた。ヒットラーもナポレオンも同じである。
しかしドイツ、フランスと日本はそのあとが全く違う。ドイツとフランスは回りの牽制が続くなかで節制と配慮を身につけた。フランスの場合、ナポレオンは少し突出した存在であり元々はある程度ヨーロッパの激しい攻防のなかで限度を守ることができる国だった。しかし日本は豊臣の失敗から節制と配慮を学べなかった。それは一回限りの経験の限界かもしれない。'遠征'という名のように一種の旅行に出かけてきた水準のものであった。それで"かきすててしまったのだ。だからこそ270年後再び朝鮮への侵略を試みることになる。'わがまま'は簡単にはなおらない。相当な試練と制裁と悩みの末やっとなくなる。
世界大戦の敗北はいたかったが、それは二つの理由で日本人のわがままを直せなかった。負けた相手は中国や韓国ではなくアメリカであったことだ。アメリカもわがままであるから日本のわがままにはそれほど敏感ではない。だから冷戦構造が現れると戦犯国家日本を同盟国として認めたので日本は戦争や侵略の責任を感じなくて良かった。ドイツが回りの国の圧力で戦争犯罪への反省を強いられていたこととは対照的である。もう一つは中国と韓国が弱くて無視できたということであるそれもドイツの回りの強国の存在とは対照的である。日本が'わがまま'をなくすチャンスはそういうことにより消えてしまった。
そして日本は再び'わがまま'を発揮しようとしている。これで四回目である。第一回は古代律令国家建設の時期である。第二回目は豊臣秀吉の侵略のとき、第三回目は近代の侵略旺盛の時期である。すでに述べたように日本が分裂を統合して強い権力を持つようになった時期と重なる。もちろんそれは強い国力の基盤とする。一回目と二回目は完全失敗、三回目はかなり成功したが結局失敗だった。
しかし今回は心強いところがある。それは世界最強の国のアメリカとの同盟だ。日英同盟で強大国ロシアを破って世界の列強の地位にあがった道をもう一回歩もうとする。日英同盟を捨ててーイギリスが破棄していはいるが結局自分達が独自の道を歩んだー破滅した失敗はもう二度と繰り返さないと誓いながら日本は政治軍事大国を目指しているのだ。燐国への配慮と節制はどこにも見えない'わがまま'であるとしかいえない。
韓国との関係悪化にはこのような日本の'わがまま'とそれによるあらゆる政策が背景になる。徴用問題、慰安婦問題をはじめとする歴史問題などに足を引っ張られてはたまらない。だからいい加減に処理して自分達の道を歩みたいという大きな'わがまま'が韓国を押さえるための政策を次から次に実施させたのだ。ヨーロッパの強国に囲まれて節制と配慮を学んできたドイツとしては考えられないことである。しかもアメリカが味方なのではないか。
しかし日本の選択は危険なところを含んでいる。アメリカはもはや世界を圧倒するほどの強国ではない。それに'アメリカファースト'ということを掲げてあからさまに'わがまま'を実現している。世界の平和と統合という大きな流れに歯向かっているのだ。まるで昔のドイツのようになっている気がしないわけではない。それに日本はくっついていくということは過去ドイツにそうしたことで破滅に落ちたことと重なるような気がしてならない。言い過ぎなのか。
"日本は世界で特別な国家だ。全世界が尊敬して依存できる国。道義大国を目指す世界唯一の国であると確信する。。。"(稻田朋美·元防衛相)
これは平凡な人の発言ではない。名門早稲田大学を卒業し社会のエリトであるといえる弁護士であり防衛大臣という閣僚を歴任したひとの発言である。いくら個人の発言であるとはいえあまりにもレベルの低いことにはあきれてしまう。まるで幼稚園の園児が"うちのママの料理が一番美味しいしパパは世界でもっともかっこいい"というような幼稚さが感じられる。
これは例外ではない。ノーベル文学賞を受賞した川端康成は受賞の所感を述べるとき'美しい日本'を口にした。ノーベル賞をもらうぐらいなら日本の代表的な作家であるはずなのにこんなレベルの低いことを口にする何て信じられない。そしたら自分の国は美しくないと思う人がどこにいるのか聞きたいのだ。それを世界各国から注目されるところで喋るとは常識のないことではなかろうか。稲田のそれより一歩も進んでいない発言であるといえよう。自衛隊の決起を呼び掛けて自殺した三島由紀夫にいたっては最早いうことがない。'わがまま'にも限度がある。
ドイツの人々が過去の'わがまま'からどれだけ抜け出しているのかは分からない。しかし日本人はあの戦争を起こした'わがまま'から本質的に脱出していないようだ。日本書紀から始まり江戸時代の国学で体系化した、'わがまま'は日本人が乗り越えなければ大きな壁として今日も日本社会に暗い陰になっている。
5。韓国人はナチス時代のユダヤ人の立場に立たされている。
'韓国人に生まれなくてよかった。'(武藤正敏)
駐韓大使を勤めた武藤正敏はいまは韓国への攻撃を人生の目標のように生きている反韓派の代表的な人物である。一国の大使までした人が自分が駐在していた国を侮辱するタイトルの本を書いたのは問題である。"韓国が良くなることを願って書いた。決して韓国を嫌悪しているからではない。"説明しているが、いくら何でもこのタイトルは限度を越えているとしかいえない。しかもそういうことをいった人物はいまは韓国の攻撃にすべてをかけているからなおさらである。 韓国では'日本人に生まれなくて良かった'という本が出たとは聞いていない。これが現在の日韓の関係の現状を象徴しているような気がする。韓国で日本嫌悪運動は全くといっていいほど起っていない。嫌日はないのだ。むしろ'反日種族主義'のように日本を批判する韓国人を批判する本がでて10万分以上売れているのが韓国の現実である。およそ3割の韓国人は日本に頭下げても和解しろという主張に同調しているのが韓国である。だから日本への政策に対して激しい議論が繰り返されている。しかし日本でそういう議論があるのか疑問である。
それにも関わらず日本人は韓国に対して多くの誤解をしている。現在韓国で行われている不買運動を国が主導していると思っている日本人は意外と多いようだ。わたしは対馬を四日間訪問して取材した結果そう感じるようになった。しかしそれは全くの誤解である。むしろソウルのある区役所が不買運動を支援しようとしたが反対世論で取りやめたことがあるほど不買運動は国をはじめ公共機関とはどんな関係もないのが事実である。
'Yes Japan No Abe'韓国の不買運動のキャッチプレーズである。韓国人は日本人を憎んでいない。ただ安部首相の反日的な政策に反感を持っているだけだ。日本人がヘイトスピーチを通じて'韓国人を殺せ'という極端な話をすることなど韓国ではあり得ない。いくら一部の人だけとはーしかも女子中学生が"南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行します。それをする前に国にかえってください"と叫んだのは韓国人に大きなショックだったーいえあまりにも失礼なことではなかろうか。
在特会という右翼の団体がある。'在日特権を許さない市民の会'の略号であるこの団体は
在日韓国人と朝鮮人の特別な地位に怒りを表現したことか出発していまは韓国への攻撃を日常的にしている。在日(在日韓国人と朝鮮人をさす。以下同一)たちは歴史的な遺産として誕生した存在であり、したがって彼らが少し特別な地位をもつようになったことは大勢の人たちの努力の結果である。それは日本が韓国に対する謝罪と責任の意味が大きい、象徴的なものでもある。
それにもかかわらず在特会はそれを無視して(あるいは理解できず)攻撃をし続けているのだ。いまは在日だけではなく韓国北朝鮮への攻撃にその範囲を広げている。もっと驚くべきことはこの団体のメンバたちは決して特別に政治への関心を持っている人たちではなく極普通の人たちである事実だ。日本人のなかに韓国への反感がかなり浸透しているのではないかという心配を抱かざるを得ないからである。
"韓国には嘘が恥ずかしいことだという考えがない?"(ケントキルバート)
日本人は韓国人がうそをつくことに罪悪感がないと思っているらしい。在日アメリカ人がこんな話をするぐらいだからどれぐらいなのか推測できるだろう。もちろんこのケントキルバートというアメリカ人は'朝鮮半島という災厄''反日同盟 中国・韓国との新・歴史戦に勝つ!''中韓がむさぼり続ける「反日」という名の毒饅頭'などかなりの韓国嫌悪の本を出した反日派だから気を使わなければならない。
しかし私は日本で留学しながら多くの人がうそを平気でついていることを目撃した。留学したばかりの時日本はリクルート事件で大騒ぎだった。私が本当に驚いたのは、関係のある政治家たちが"記憶にございません""秘書がやりました。"といいながら責任のがれをしていたことだった。記憶にないことはまだいいけど(もちろんこれもうそであることは間違いないが)'秘書がやった"という言葉にはあきれてしまった。秘書が議員の許可なしで賄賂であることがはっきりしている金をもらえるだろうか。賄賂は目的があるからやるお金だ。当然その目的の説明があるはずだ。それを秘書の勝手な行為にすることは卑怯極まる行為ではないかと思った。
2016年から2017年にかけて起きた韓国の蝋燭革命は韓国人が決してうそを何とも思わない国民でないことを証明している。それは権力者たちのうそが原因であった革命であるからだ。しかし日本の安部首相はいわゆる'学園スキャンダル'にもかかわらず依然として首相の座に居座っている。日本人はそういうことが許せるものかという気がする。
これらの話は決して日本を批判するためにしたわけではない。それより韓国人がうそを日常的に吐いてそれを何でもないと思っているというとんでもない批判を是正するための、やむをえない反論である。韓国人は決して善良なる人たちではないが、かといってうそをついてもいいと思うほど邪悪な民族ではない。もしそうだったらたぶん韓国は今のような経済的な発展をなすことができなかっただろう。イタリア出身のあるアメリカ大学の教授は"イタリアは特に南部の場合、社会的な信頼がほとんどないので発展できず停滞している"といっている。信頼がない社会に発展がないという彼の主張が正しければ韓国は信頼関係が整っている国であるといえる。
"韓国は約束を守らないので信頼できない"
これは多分現在日本人が一番口にする批判ではないかと思われる。対馬での取材でも今の両国関係の悪化がこれによって発生したという意見が圧倒的に多かった。ある人は"文大統領にあったら約束を守りなさいといいたい"とまでいった。これは短く見れば慰安婦合意の事実上の破棄、徴用工裁判などがあり長く考えると1965年の日韓請求権協定の決定を尊重しない要求に対する批判になるだろう。
これは全体の流れや構造が全く無視された批判である。そして事実への認識も足りない。少し荒っぽくいえばこれも'わがまま'な批判であると見て間違いない。自分達が正しいという前提で相手を批判しているのだ。'日本がうそを吐くはずがない' '日本人は約束を絶対守る'という確信がその下に置かれている。すでに述べたように日本人の'わがまま'は外に対するものであるので日本人自身が気が付かない場合が意外と多い。これはナチスドイツも基本的にはにている。根拠のない民族的な優越感、プライド'井戸の中の蛙'ということになる。
日本人はいままで繰り返して約束を守らなかった。朝鮮末期日本は繰り返し韓国に'独立国'であることを約束したが結局守らなく植民地にした。1965年以降も植民地支配への暴言を繰り返し謝罪したがそれをまた何回も引っくり返した。1990年代の河野談話(1993年)村山談話(1995年)1998年小淵金大中宣言を通じて慰安婦問題をはじめ植民地支配に対する謝罪をしたが、(2010年菅談話で確認)最近それをほとんど引っくり返す発言をしている。
韓国人は繰り返し謝罪と賠償を要求したという主張は全然事実ではない。韓国が謝罪の要求したのが両国の間に問題が起きたからである。賠償要求は少なくとも国家レベルでは1965年以降は全くしていない。徴用工の場合個人の賠償要求でありこれは1965年の請求権協定によって制限されたものではないことは日本側も繰り返し認めている事実である。それを日本が勝手に自分の国内法で制限していることは韓国との約束を破棄したことになるからむしろ約束を守らないのは日本側になることである。
ただ一つ'慰安婦合意'に対してはたしかに韓国側に責任があるといえる。一応首脳同士で合意をしたことであるから守るべきであることはたしかに間違っていない。もちろん公式的には韓国側もこれは破棄していない。しかしそれの履行のために設立した財団を解散するなどによってまじめに合意を実行しなかったことは事実であるからある程度批判されても仕方がない。たとえそれが朴前大統領とその政府の失策であったとしても国同士の約束は守るべきである。
しかしもっと広く長く見ればこれに対する日本側の責任がなかったとはいえない。1990年代の談話と宣言は日本の植民地支配への謝罪をはっきりしている厳然たる約束である。しかし慰安婦合意にはこれは抜けている。そして安部首相は慰安婦に対してくりかえし"自ら売春をしていきた"という発言をしながら1990年代の談話を否定している。だからこそ慰安婦合意に謝罪を含めなかったことになる。それに同調した朴前大統領にも責任はあるがー安部首相より大きいー日本側にも一定の責任を問わざるを得ないのだ。
しかし残念ながら日本人にはこういう経緯が分かっていないようだ。対馬での取材でこれを知った日本人は極わずかであった。2/20ぐらいだったと思う。それは無関心と無知のせいではあるが、それだけではない。'わがまま'による間違った自信からでもあると思う。
韓国人への批判を検討していると昔ナチスドイツのユダヤ人批判にかなりにているような気がする。それは前提としてドイツ民族の'わがまま'による優越感とユダヤ人に対する軽蔑があり、それに基づいたものであることだ。日本人の韓国人への批判も具体的なものであるよりまず'我がまま'による優越感があってそれに韓国人への軽蔑が加わっているということになる。簡単にいえば日本人の批判は具体的な問題を指摘することが本質ではなく"優れた我らから見ればおまえらは人間屑だ"と批判しているからだ。これは人格否定という一番卑劣な方法である。
これは韓国人の日本への批判とはまるっきり反対である。1980年代までは韓国にもこのような日本人批判はかなり存在していた。日本人は元々だめな民族であるという軽蔑はその当時まではかなり一般的であった。しかし1990年代から状況は変り始めた。日本経済への称賛から始まり日本の談話や宣言の効果もあったこと、金大中元大統領の日本文化解放と韓流などによる両国の間の'黄金時代'になってからは日本への批判そのものがかなりなくなったのであった。植民地時代における日本人の残酷さを描くテレビ番組や記事などをほとんど消えたのでこれでいいのかと心配になるほどー二世の教育ということでーであった。2018年の日本への観光した750万人という数字はそれを象徴している。
ユダヤ人、韓国人は根拠なく人格否定的な批判を受けたことで共通している。ユダヤ人はノーベル賞を30%受賞したがこれは人類への貢献する人に与えられるという賞の主旨からみればユダヤ人が人類へ大きな貢献をしたことを意味する。韓国は千年以上よその国を侵略したことも戦争を起こしたこともー少なくとも侵略の意味でーない、平和的な民族であった。もちろんすべてがただしかったわけではないが、人間がどうやって完璧であろうか。
しかしナチス時代のドイツ人と現在の日本人はユダヤ人と韓国人を自分達の優越感を証明でもしようとしていじめる。ドイツ人はユダヤ人を皆殺し用とした結果、ホローコストが起きたのである。民族による特定民族の抹殺の試みの典型的な悲劇だった。日本人は違うか。少なくとも表面的には。しかし精神的にいえば本質はいっしょではないかと思われる。21世紀という時代的な環境、民主主義か独裁か支配されているのかどうかという環境の差が無かったら韓国人のホローコストが起きないとは限らない。
日本はもしかしたらナチスドイツの道を歩もうとしているかも知れない。安部首相は明治時代の精神を強調しているが、これはほかの国々との協力を大事にする'穏健な帝国主義'意味する。もちろんそれだけでも問題がないわけではない。しかし過度な民族主義ーほぼ種族主義といっていいほどでナチスのそれにかなり近いーに基づいた優越感と過去の誤りの歴史の否定、特定民族へのーこの場合は韓国人ー軽蔑的な態度はナチスドイツの面影を感じるようなものである。まさに日本は人類の文明が築き上げた、平和な世界への流れを逆らうことでもう一度大きな過ちを犯すことになるのか。とても気になってならない。
6。我々が戦うべき相手は人間ではなく反平和主義である。
エミール=ゾラ"私は告発する。’
私が告発した人たちに関する限り,私は彼らに知りもしないし,ただ一度会ったこともなく,彼らに対して恨みや憎悪を抱いているわけにもありません.彼らは私に社会悪の標本であるだけです。 そうして来る私の行為は,真実と正義の爆発を早めるための革命的手段であるだけです。
私はあんなに大きな苦痛を経験した人類,いまや幸福追求の権利を持つ人類の名において,ただ一つの熱情,すなわち真実の光に対する情熱を持っているだけです。私の燃える抗議は私の魂の叫びであるだけです。どうか私を重罪裁判所へ呼んで青空の下で調査してください!
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=hansol4755&logNo=221560419688에서
https://blog.nli.org.il/en/tour_de_france/
ドレフュス事件の全貌
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドレフュス事件
ドレフュスの軍籍剥奪
https://www.youtube.com/watch?v=iVWdyYdAvPo
大学3年の時、偶然に私はドレフュス大尉の事件のことを知るようになった。図書館でいろいろな本のタイトルが書いてある目録をー昔はカードで本のタイトルを見つけて申し込みをして借りたー見ているうちに'ドレフュス事件'というタイトルが目にはいったからである。それをかりて読み始めたがあまりにもおもしろかったのでその日の内に全部読んでしまった。わりとゆっくり本を読む私としては少し珍しいことである。
そして私は全く異なる世界にはいってしまった気持になった。'民主主義の本場だといえるフランスでもこんな事件があったのか。信じられない。'私がショックを受けたのはこれだった。フランスは民主主義への強い希望を持っていた私にはあこがれの国だった。丁度そのごろだと思うが'西洋近代史'の講義を通じてフランス革命を学んだ私はその感動を胸にしまっていたのでドレフュス事件は考えられないものであった。
当時韓国は事実上軍部独裁のもとにおかれており民主主義への道は険しいものであると考えられた。"これはもう卵で岩をたたくようなことだな"という悲観的な味方が一般的になっていた。1979年、終身大統領となっていた朴正煕元大統領が側近に殺害され一時は民主化がついに成就されるかと思われた時が来たが、金大中が反乱の罪で死刑宣告をされる一方軍部の首脳による権力がにぎられた結果、民主化の夢は泡のように消えてしまった。"どうせ韓国なんか民主化ができるはずがない"私も半分あきらめ状態であった。"韓国で民主化が成功することはゴミ箱で花が咲くようなものだ"といった外国の記者の評価が真実であるように感じたりした。"こうだったら一所懸命勉強するしかない"心から思ったりした。
しかしそれは決して本音ではなかったことがわかった。'ドレフュス事件'を知った瞬間希望が沸いてきた。'元々民主主義に向いている国なんかないのだ。あのフランスだってこんなとんでもない事件があったのだから'心の中でこのような叫びが聞こえるようだった。まるで成功した人にも問題が多かったことを聞いて'それなら私もやれそう'と喜んでいるようだった。
'ドレフュス事件'のような事件はその当時韓国ではありふれるものであった。権力が少しでも危なくなったりあるいは金大中のように民衆の支持を集める人物が現れたりすると北朝鮮のスパイ事件を捏造して政権に反する人たちあるいはなんの関係もないーちょっと不満をいうぐらいでー人たちをスパイにして'00スパイ事件'捏造することはうんざりするほど起きたのである。1974年の'人民革命党事件'は終身大統領の座を狙った朴正煕の改憲に反対する人たちを北朝鮮と手を結んで反乱を起こそうとした疑いをかけて事件を捏造し、8人の尊い命を奪った。最高裁判所で死刑が確定した翌日執行される常識はずれがあったので疑惑はもっと大きくなった。かれらが2007年の再審で全員無罪となることでこの事件の真相が明らかになる。
残念なことは今日の韓国にも反ドレフュス派のように人権と民主主義より安保や国家の権威を大事にする人たちは存在していることである。個人の人生を破滅に落してまでかれらが守りたいのはいったいなにものか聞きたい。もちろん安保は大事であるが、それが罪のない人の人権を抹殺しないといけないことなのかと思う。だから当時はいうまでもなかった。民主化世代といわれている私たち86世代(60年代生まれで80年代に大学を通った世代)は安保を理由に人権を抑圧する独裁者はもちろん嫌いだったが、それを支持する人たちがもっと憎かった。"あなたたちそれでも人間なのか。自分の子供や家族がやられても同じことがいえるのか"と叫びたかった。
ドレフュス事件でもっとも印象深かったものはいうまでもなくエミール=ゾラの活躍であった。'私は告発する'という広告を新聞に掲載して人権と民主主義のために戦いはいじめ結局ガスの爆発という事故で疑問の最後をむかえた彼の生き方にわたしは計り知れない感動を受けたのである。有名な作家としての保証された人生を投げ出したエミール=ゾラのような人物は当時韓国にはかなり存在していたが民主主義そのものがまだ安定していない時の彼の活躍は今日まで民主化を夢見る大勢の人々に希望を与えたことでもっと大きな意味を持っているだろう。そのような先駆者たちがあったからこそ我らの後進国も希望をもって進むことができたと思う。
エミール=ゾラだけではなく大勢の人々ーそれはフランスに限られたものではないーが国と民族を越え連帯して戦ったことは掛け替えのない経験であった。フランス大革命から丁度100年ぐらいた経った1890年代にこの事件が起り民主主義が完成に向かったことは決して偶然ではないだろう。フランス革命を警戒して連合したヨーロッパの国々に民主主義は浸透しておりついにその価値を守ろうとした国際的な民衆の連帯ができたことは多くの人たちの血と涙、汗の犠牲があったからこそ可能だったのだ。
韓国の元政治家(大臣、国会議員などを歴任)で作家活動をしている柳時敏(ユシミン、1959ー )はこの事件を彼の著書'逆に読む世界史'で次の四つにまとめている。
一。真実と正義のために戦った人々
二。軍部の権威より文民の優位を確立した。
三。知識人の力の価値
四。19世紀の価値観(軍国主義)と20世紀の価値観(共和主義)の衝突
ここでもっとも注目すべきことは一と四である。民衆の国際的な連帯は守るべき価値のために結成されたのだ。"私生涯守ろうとしたものは国家ではない。それは真実である"韓国の進歩の代表的な人物で言論活動をした李泳禧(リヨンヒ)(1929ー2010)はこう語った。彼は投獄と解任などで苦難の人生を送りながらもこの原則を守ろうとしたので今日まで大勢の人たちの尊敬を受けている。まさにドレフュス事件で連帯した人たちが守ろうとしたものも真実であったことを考えるとこの発言は彼らの勇気ある行動が残した遺産ではないかと思われる。
今日の我らにも国や民族を越えた、このような価値を中心とした連帯が要求されている。権力と国家はそれ自体が一人歩きして利益を追求することがしばしばある。それに国民はだまされていらない憎しみをお互いに持つようになり自分達の命や財産、家族を失うことを支持する場合が多いのはいうまでもない。ドレフュス事件はそのような愚かさを捨ててまさにそれを乗り越えたいい事例であった。
日本と韓国の民衆は国民としてではなく守るべき価値のために民衆として戦うべきである。それは平和主義対反平和主義(侵略主義)の戦いである。この戦いはドレフュス事件が残した偉大なる遺産を受け継ぐことである。たとえ世界大戦で一時忘れていたが、戦後取り戻そうとしてきた価値、それは侵略と支配、差別、殺戮などが国や民族の名であるいはある集団によって行われた古い時代の価値に代る新しい価値ー平和、安全、平等、公平、公正、人類愛などーという遺産を守って拡大していく義務が我々にはある。
ドレフュス事件は決して過去の出来事となって博物館か歴史の教科書の中に閉じ込められてはいけない現在なのだ。我らはE・H・カーの名著である'歴史とは何か'でいわれているように、過去と現在の会話を怠けてはいけないのだ。過去の教訓が生かされないなら歴史は単なる高級な趣味にすぎない。ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領は"過去に目を閉じる人は現在にも盲目なる"(1985年西ドイツ国会演説'荒野の40年'から)と宣言した。過去の歴史を知らない人は現在への認識も不完全なものになりやすい。
しかし残念ながら日本人は過去の歴史に対する正しい認識を持っていないといえる。かれらが受けた歴史教育はとても過去を現在と会話できるようにさせる水準ではないようだ。対馬での取材はそれを確信させてくれた。結局それは'現在への盲目'をもたらし、さらに知らないという事実さえも知らない状態にさせたのである。日本人が韓国人に'約束を守らない'といい続けているのもこのような無知の無知によるものであり、決して彼らが邪悪な存在だからではない。
したがって日本人は救うべき対象ではあっても憎むべきできではないのだ。日本人のほとんどは戦争や植民地支配とは直接関係のない人たちである。"知らなかったからすべてがゆるされることではない"とヴァイツゼッカーはいっているが経験のない人たちにそれをいうのは少し厳しすぎる。ソクラテスは"私は自分が何も知らないという事実しか知らない"といって'無知の知'の大事さを主張したが、それは平凡な人には生易しいことではない。人は見たいこと聞きたいことだけを見たり聞いたりする。
日本でもエミール=ゾラのような勇気のある人々が必要である。'無知の無知'から日本人を'無知の知'へ導いて真実に目覚めさせる、真の知識人たちが活躍しなければならない。一人が二人にすればいずれは4人、8人まるでネズミ講のように正しい認識は広がり日本全国が真実の'蝋燭'で明るくなる日が必ず来る。エミール=ゾラや李泳禧が命をかけて守ろうとした真実がついに広がり歴史を動いたように。世界の変化も最初は一人の人間から始まったことは歴史を勉強した人たちには常識である。'それでも地球はまわる'と呟いたガリレオ・ガリレイの勇気がやがて世界に広がり今日の常識として伝わっている。
"平和がすべてではありません。しかし平和がないとどんなことも不可能です。"
(ヴィリー・ブラント元西ドイツ首相(1913ー1992)1981年11月3日)
戦犯国家ドイツガヨーロッパの中心国家になることに決定的な貢献をした人はヴィリー・ブラント元西ドイツ首相である。彼が実施した'東方の政策'は冷戦構造の中で東西の間の緊張緩和をもたらして1989年のベルリン壁の崩壊と冷戦の終息への道を開いた。以降ヨーロッパ連合が中心としたヨーロッパで統一ドイツはまぎれもないリーダーとしての位置を占めている。ブランとの'東方政策'のシンボルでもある、'跪いている姿のブラント'ー"人間が言葉で表現できないとき、やれる行動をしただけである"(ブラント)ーはドイツガ戦争による過ちをどれだけ心から反省しているかを示している。その決断は多くの批判の対象になったが今日に至ってはドイツを救った勇気ある行動として称賛されている。
日本のブラントはあり得ないのか。それは日本国民の心と行動次第であると思われる。もし当時のドイツ(正確にいえば西ドイツ)に反省と謝罪への思考がなかったらあるいは微々たるものであったらブランとの決断もなかったかも知れない。それは個人の勇気だけでは生まれないほどの歴史的な決断だったからである。"一人が夢を見るとそれは夢であるがすべての人が同じ夢を見ると現実になる"というジンギスカンの話を思い出したらいい。日本人のすべてではなくても多数がいや意思と行動力のある一部でも同じ夢を見ると"山は動く"(盧武鉉ノムヒョン元韓国大統領)ことができる。
"蝶落ちて大音響する"(朝山正治)"アマゾンの蝶が一回バタバタするとアメリカでトルネードが起きる"(蝶の効果、レイブラッドベリ)
英雄は時代が作った舞台で与えられたミッションを果たす存在である。その舞台をつくることは神の役割であるがそれを実行することは平凡な一人一人の分け前である。その一人は神の義と国を信じる人たちである。だから"神の義と国を求めなさい"ことによってすべてが決まる。
曺國(チョコック)事態をどう見るべきか。"日本では考えられない。それぐらいだったらもう特に辞退した"と日本人たちはいう。では聞こう。日本人は汚名を覚悟して信念を貫こうとしたことがあるのか。そして国民がそのためにろうそくを持って戦ったことがあるのか。安保闘争でも大学紛争でも"彼らだけのリーグ"だったのではないか。"安保条約で国会議事堂を囲んだデモ隊の数より後楽園で野球をみている人の数が多い"という話はどういうことなのか。
明治の日本がすごかったとしたらそのような力があったことである。自由民権運動、大正政変と大正デモクラシをもたらしたものはその舞台を作ってくれた民衆の力である。しかし戦後一回でもそのようなことがあったのかと言えばなかなか首を楯に振ることはできないだろう。"明治の精神を取り戻そう"と叫ぶならその精神を取り戻してほしい。
韓国はそういう意味では日本のモデルないし師匠であると言える。民主化の仕上げをアメリカに依存してしまった日本と違って韓国は最初はアメリカに依存したがーただ臨時政府は民主主義を採択したーその成長はみずからの手で一歩一歩なしてきたことで民主主義がしっかり社会に定着した。チョクック事態は民主主義の成熟がなければあり得ないものだ。
彼を支持することが間違いだと?それが間違いであるかは別にして民主主義は間違いも許すことだ。それを許さないで正解だけを強制する社会は民主主義が定着したとはいえない。安部首相への反対の声が公然上がらない日本の民主主義は成熟していないと言わざるを得ない。最初から反対と賛成の対立を許さない日本は韓国の民主主義を学ぶべきである。"民主主義のもっとも大きな矛盾は反民主主義までも許さなければならないことである。"だれかがこういった。
一方、韓国人にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとエイブラハム・リンカーンのように価値のために相手を包容することが要求される。彼らが戦うべき相手は日本人でも日本でもない'反平和主義''侵略主義'のような古い価値であることを忘れてはならない。キング牧師は'私には夢がある'という歴史的な演説を通じて白人の過ちを厳しく批判しながらも彼らに新しい世界ー肌色などで差別されない世界ーへの道をすすめている。その演説で批判されているのは白人ではなく古い価値観による差別であり目指すことは差別のない公平な世界であった。
リンカーンも南部の行為には厳しく批判をするが彼が強調したのはやはり目指すべき価値だった。あの有名なゲティスバーグ演説でかれは勝利を祝ってもいないし敵を批判してもいない。自分達の先祖が築き上げた'人民の、人民による、人民のための政府'が永遠になくならないようにすることが生き残った自分達の使命であることを述べているだけである。2回目の就任演説でも"汗をかかないで手にした蓄積がなくなったことは神のみむねである"といいなからも"だれも恨まないで新しい国家を作ろう'といって新しい価値のもとで新しい未来への出発を語っている。
韓国人と日本人が過去の歴史の教訓を現在に生かして未来に行くことは本当の意味での未来への道である。'過ぎたことは水に流そう'というようなやり方では明るい未来はやってこない。しかし罪意識ばかりを強制したらわれらは過去に縛り付けられてしまうからやはり明るい未来は来ないのだ。戦うべき相手は人間ではなく反平和主義であることをしっかい覚えて新しい価値を
もって未来への聖戦を勝ち抜くべきである。
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